前にも書いたけど、言葉は贈り物。送った時点、貰った時点で成立している。
どうしてこんなに取ってあったのだろう。読み返してみると、今でも続いている友人もいるし、年賀状のやりとりだけは残っている友人もいるし、終わってしまった友人も多かった。
ここ数年、何十年も会っていない友人から連絡をもらったり、卒業以来の同窓会の案内が届いたりと続いたけど、それも一巡したような感じ。
手紙やはがきを全部整理するにはまだまだ時間がかかりそうだけど、友人が一人も残らなかったらどうしよう……。なんてね。
人は成長に応じて付き合う人も変わってくるもの、自分がそうであったように他者もまたそうなのだと。一緒に過ごした時間が大事なのであってもうその証は必要ないと思える。自分には確かに成長の過程(この年になるまでの)で友人がいたのだと、もうそれで十分だなって。
手紙をくれた友人たちにはほんと感謝してこれを機に一度友達じまいをしておこう。
手紙類を取っていたのは孤独な人と自分で思いたくなかったのかも。
「ぼくたちにモノはもう必要ない」の著者もそんなこと言っていたけど、人は孤独を感じるようできている。
ただ、もうこの年になると、孤独な人であることはそんなに怖いことではないし、孤独な人と思われるのも案外平気なもの。
カフェはいつも一人で勉強に使っているし、見たい映画は一人で見てるし、たまにはビアカフェでチェリービールも一人で飲むし、行きたいところにはこれからは一人で行く。
飲み会に誘われることも年に数回程度で、ランチ会に誘われるのも娘が高校を卒業すればもう終わりだろうし、しばらくは(もしかしたらこれからずっとかも)一人でいることに慣れて、楽しむことにしたいなって。
その分、誘われた時の嬉しさや改めて他者と過ごす時間の楽しさを感じられるようになるといいな。
さて手紙に戻るけど残しておくものがあるとすればそれは手紙を書く道具だけ。
ボールペン(以前は万年筆を使っていた時期もあるけど、今ではボールペン派、0.7mmの油性でブラックつまり100円で変える物)と書きやすい一筆箋と白い封筒とはがきの類。
余程改まった相手じゃないと便箋は使わない。ちょっとしたお礼は一筆箋に白い封筒。
手紙は貰った数じゃない、大事なのは書いた数、送った数なのだと。ただ送った相手も整理に困るのかなと思うと、ちょっと考えちゃうけど。
そう思うと今の人は電子化されていていいなあ。削除もほんと簡単だし。
味気ないって言う人もいるけど、残らないことを考えるとそのほうがいいと今の私ならそう思う。