ちょっとした庭

家を片づけて、食を減らしその先にあるものは、「美しく枯れた生活」だと思っていました。


例えて言うなら、「ターシャの庭」のターシャ・チューダ、「西の魔女が死んだ」の祖母、


もっとイメージしやすいとすれば、「千と千尋の神隠し」の湯婆婆の双子の姉・銭婆。


ナチュラルガーデンでハーブに囲まれた優しく、素敵なおばあちゃん。


でも、いくら家を片付けても都会の狭小住宅に暮らす身としてはそれは無理。


というか、それ以前に「枯れる」ってまだ無理だなと。


長男に「楢山節考」を元にした二次小説をレポートとして提出するから、


短いし、読んてみたらと言われ、映画は見た覚えがある「楢山節考」の原作を読みました。


内容は映画で見た通り、家族のため、食い扶持を減らすために、70を迎えた冬に


喜んで、楢山に捨てられに行く、「おりんさん」。


雪の降る中、寒さと飢えに震えながら念仏を唱えながら気高く死んでいく。


その一方で最後まで捨てられることを拒み、逃げ出すも捕えられ、ぐるぐるに縛られ、


それでも死にたくないと息子にすがりつき、蹴り落とされる隣の「又やん」に


見苦しい、潔くすればいいのにと思ったことを思い出しました。


しかし、今読み返してみると、家族のために気高く死んでいく「おりんさん」より、


見苦しく、生に執着する「又やん」の姿に人間そのものを感じるのです。


自分が50歳を過ぎて、捨てられる側に近づいたからでしょうか。


というか、この現代社会で家族のために喜んで捨てられることを望める


老人なんてどこにもいない。みんな「又やん」だと。


私の「美しく枯れて生きたい」なんて、底の浅い恰好つけたスタイルに過ぎない。


であるとしたら自分も「又やん」のように、生への執着を自覚すべきだと。



自分が所属しているNPO法人で開催しているパソコン教室にいらっしゃる70代の


おばあちゃまたちによく


「あなたはまだお若い、まるでお譲さんのように可愛らしい」と言われることがあります。


(もちろん相対的に見てというのはわかっていますよ)


(そういってくださる方のお一人に放送大学の客員教授をされている方がいて、


私はその方が好き過ぎて、来年3年次に編入することを決めてしまうのだけど)


70代の素敵で可愛らしいおばあちゃまたちからすれば、あなたはまだこちら側に


来るべきではない、無理して枯れることはない、それは自然に任すべきなのだと


いうことなのでしょうね。


なので、自分のなかの枯れきれない思いと向き合うことにしました。


物欲にまみれるとか、飽食に溺れるとか、そういうことはないと自信があるのですが、


「綺麗になりたい」とか「可愛らしく愛されたい」とい女性であることの執着がまだ自分に


残っていて、「今更何言ってるの私」と無理に抑え込んでいたのを解放してあげることに


したのです。今、思い残すことなくちゃんと「綺麗で可愛らしく」なっておけば、


その時がきたらちゃんと枯れることができるように。


というわけで、私、綺麗になろうって。それこそ、見苦しいまでもなってやろうと。



でも実際に私に会って「え、これで?」とか、「え、どこが?」とか、「どの面下げて」とか、


思っても口にしないでね。あくまでも自分の主観の問題だから。



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